(c)Haruki Imanishi
* このシナリオはフィクションです *
一.『天皇は必要である』と野坂参三は言った
天皇についての野坂参三の立場
延安での反日戦線
二.シベリアに展開していた六十万人の日本解放軍
シベリア抑留
軍隊組織は、そのままで強制労働
三.日本共産化のシナリオ
条件が整えば日本の共産化は必至だっただろう
そして、世界はどうなっただろうか?
四.日本の共産化を阻止したもの
天皇はアメリカを選択した
天皇は、日本軍の武装解除に懸命の努力をした
天皇は退位しなかった
天皇は「私は憲法に従ったのだ」と言った
西洋文明を学んで作られた明治憲法
天皇に従った民衆と兵士たち
五.朝鮮で実際に起こった戦争
北九州に立つメモリアルの碑
日本軍はそのときからアメリカの友軍である
『戦争と共産主義』において、著者の三田村武夫は、
『コミンテルンは戦争というものを最大限利用して各国(特に敗戦国)の共産化を進めようとしていた。戦後、コミンテルンはどのような手段によって日本の共産化をしようとしているかを見届けたい』、と書いています。
以下に示すシナリオは私の想像であり、真実には実現しなかった物語であって架空のものです。
天皇についての野坂参三の立場
野坂参三は、日本共産党を代表する人物でありましたが、一九九三年に一〇一歳で亡くなる前年、共産党から除名されました。それは、当時、旧ソ連からでてきた資料により、野坂参三が一九三九年に同志の山本健三を裏切ってソ連当局に告発し、山本を刑死させたという裏切りに対してです。
しかし、一般の人々にとって、より印象的だったことは、その前年(一九九一年)の報道であり、野坂参三が終戦時、天皇制の存続を主張していたということでした。
一九四五年(終戦の年)十月から十二月に野坂参三はモスクワを訪問してソ連共産党と話し合い、天皇制の存続を主張して、その話し合いがソ連の天皇不起訴の判断に影響したというものでした。
野坂は次のように述べたと伝えられます。
「もとよりわれわれ共産主義者にとって、天皇は不必要だ…。しかし、日本では国体観念だけでなく、神授的権力感も天皇の名と結びついていることを考慮すれば、天皇と天皇家を廃止せよというスローガンは広範な大衆の間で人気をえない…。
したがって、彼は天皇と天皇家の廃止ではなく、現天皇を皇太子と交代させるというスローガンを押し出すことがより正しいと考えている。これは…日本の民主勢力が提起している他の課題のまわりに結集するのを促すだろう」
野坂は延安で定式化した路線に立って発言した。
政治的制度としての天皇制は民主化の結果廃止するが、天皇の存在はのこし、現天皇の退位を求めるというのである。
和田春樹 歴史としての野坂参三 平凡社 一九九六年三月
共産党はもとより天皇制に反対であり、当時の国内勢力も天皇制打倒という立場でした。
しかし、野坂が帰国した一九四六年一月十三日、野坂はただちに党本部に行き、そこで徳田、志賀との三者会談が行われて路線の修正が行われます。党の根本方針として、天皇制打倒というスローガンを降ろし、民意にまかせることとします。
「歴史としての野坂参三」の著者は次のように述べています。
どうして野坂の主張を徳田と志賀はあっさりと受け入れたのか。
これはやはり野坂が中国共産党との話し合いに加えて、ソ連共産党と話し合って、その支持をとりつけてきたということを徳田らに話したからではないだろうか。野坂のコミンテルンでの活動、中国での活動が野坂に与えた権威はすでに知られていた。それにプラスして、ソ連党との話し合いの事実が示されたことが徳田らに決定的な印象を与えたのであろう。
それでなければ、天皇制の問題というような根本問題で、三十二年テーゼに立って獄中生活十八年を耐えてきた国内系が態度を変えることは考えられない。
和田春樹 歴史としての野坂参三 平凡社 一九九六年三月
私は、その当時特に関心を寄せてはいなかったのですが、その話を聞いて、野坂参三は日本人の心情をよく理解していて、本人自身も天皇に対する特別の感情を持っていたのだろうと思いました。多くの日本人も、そのように感じたのではないかと思います。
しかし、ある時「フト」思いました。ソ連共産党は、すなわちスターリンはそうではなかったであろうと…。スターリンが日本の天皇に対して特別の感情を抱いたはずはない、と思ったのです。
では、その時、スターリンと野坂との間で話された内容は、一体何だったのであろうと考えたのです。そして気付きました。彼らが会して話すとすれば、その会話の目的は一つしかない。
日本を共産化するための道筋についての会話以外であるはずがない…と。
すなわち、スターリンは、こう聞いたに違いありません。
「日本を共産化するために、天皇は必要か?」と。
それに対して、野坂は答えたのです。
「日本を共産化するためには、天皇が必要である」と。
それでは、なぜ天皇が必要なのでしょうか?
延安での反日戦線
野坂は中国の延安で、捕虜となった日本軍兵士を再教育し、日本軍国主義打倒のために戦う兵士たちを育てました。日本人民解放連盟、すなわち日本軍に対するレジスタンス運動をしていました。そして一定の成果を上げていたことは、野坂の非常に重要な経歴であり、野坂参三に対する評価が高かったのも、そこにあります。
その時から野坂参三は天皇制打倒ではなく、天皇制存続の意見を述べています。野坂は、天皇制打倒のスローガンを押し立てた場合、日本人民解放の戦いを出来ないと悟ったようです。
つまり、日本軍の兵士は「解放連盟の綱領には賛同する」が、彼らを「天皇に向かって戦わせることは出来なかった」のです。
ソ連共産党と野坂との間の話し合いで、野坂の解放軍となる兵士を育てたという経歴は重要だったに違いありません。日本共産化とは「日本の解放」そのものに間違いないからです。
しかし、延安で育てた反日戦士の数は余りにも少数です。そんな僅かな兵士で彼らは日本解放をしようとしていたのでしょうか?
シベリア抑留
第二次世界大戦末期の一九四五年(昭和二十)八月九日、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を一方的に破棄して宣戦を布告し、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻しました。
満州で捉えられた日本軍は、武装解除されてハバロフスクに集められました。
彼らは日本に帰還できるものと思っていたのですが、彼らの貨車の向かった先は日本とは反対方向の西だったのです。そのようにして六十五万人あまりの人々がシベリアで強制労働をさせられることになったのです。彼らはシベリアから内陸部にかけての二千ヶ所近くの収容所に分散配置されて働かされていたとされています。
シベリアへの抑留は、スターリンによる一九四五年八月(終戦の月)の命令により行われたことが明らかになっています。
そして、彼らは四七年から五六年にかけて少しずつ帰還することができましたが、少なくとも六万人がシベリアの地で亡くなりました。
軍隊組織は、そのままで強制労働
私は、昔、ラジオで抑留経験者の話を聞いたことがありました。
彼の部隊は、山で石を切り出す作業に従事していましたが、とても難儀をしたそうです。しかし、たまたま部隊の中に石を切り出す仕事をしていた人がいて、石には割れ目があり、それに添って切ると容易に切り出せるということを教えてもらったそうです。そして皆が、その方法を習得して作業をしたということでした。
私は、何て非能率的な仕事なんだろうと思いました。それと共に、それより昔に見た本で、シベリア抑留者は軍隊組織のままで強制労働をさせられていた、とあったのを思い出しました。
この話を聞いたとき、フトした疑問が起こり、その疑問は私の頭の中にずっと残ったのです。
なぜ、軍隊組織のままで強制労働をさせたのだろう?
そしてずっと後、私は気付いたのです。
軍隊組織のままにしていたのは、軍隊として使おうとしていたからだ! …
そう気付いた時、「六十万人の旧日本軍を軍隊として使用するつもりだった」ということと、「天皇は必要である」、という野坂参三の言葉とが結びついたのです。
軍隊として使おうとしていたとすると、強制労働をさせていた理由も分かります。
一.軍隊として活動できる体力を維持させておくため
二.本当の目的をカモフラージュするため
「六十万人の旧日本軍(関東軍という精鋭部隊)によって、日本人民解放戦争を起こす」。このことは、あったとしても、ほんの僅かな人を除いては決して知らされることのない極秘中の極秘事項でしょう。
ある知識人は、日本知識人の平和主義を自慢して「もし敵が攻めてきたら、わたしはバンザイをして迎え入れる」と言いました。しかし、彼らは同時に「アメリカは日本から出て行け」と言うのです。ですから、彼らがバンザイをして向かい入れる敵とは、当然にソ連の方から攻めてくる敵のことです。
ベトナムで起きたように、土地を知り尽くして、人々(とりわけ知識人たち)の支持を受けた六十万人の軍隊が、原爆を広島・長崎に落とし、東京大空襲を起こして一般人を大量に虐殺したアメリカ占領軍に対してゲリラ戦を起こしたとしたら。
そして彼らの持つ銃がソ連製のカラシニコフAK―47だったとしたら。
しかもソ連自身は血を流す必要が全くありません。日本を解放しようとする日本人自身の問題であり、日本に起きた国内問題であるとするでしょう。ベトナムのときのように。
当時のアメリカ占領軍の規模はどの程度だったでしょうか?残念なことに、当時の占領軍の規模は分からないのですが、六十万人以上もいたのでしょうか?
あったとして、それは成功したでしょうか?私は、いくつかの条件が整えば十分に成功したと思います。
条件が整えば日本の共産化は必至だっただろう
日本共産化のシナリオの実現可能性を箇条書きにしてみましょう
一.日本が戦争後、そんなにも速やかに治安が回復するであろうとは思われていなかったということがあります。状況によっては、大きな混乱がもたらされたことでしょう。その混乱の責任は政府、そしてバックの占領軍の責任にされたことでしょう。
二.もし大きな騒乱が起きたなら、それは全国的に波及することでしょう。戦争直後のことですから、アメリカへの憎しみは決して小さくありません。その憎しみは容易にマスコミによって掻き立てられることでしょう。その時、カラシニコフを抱えた六十万人の旧日本軍が、日本国の解放のために海を渡るのです。
三.アメリカは日本からとても遠い。しかし、シベリアは日本に近い、ウラジオストックから日本まで、船であれば半日で到着します。
四.日本の国土は、ほとんどが山脈です。ゲリラ戦にはとても適していると思われます。僅かな期間でアメリカ占領軍の勢力範囲は、東京・大阪などの平野部だけに限られてくるでしょう。日本政府は軍事力を奪われていましたから、日本を守ることはできませんでした。
五.解放軍側の日本解放の願いは切実ですが、アメリカの国民は、再び戦争をしたいとは思わないでしょう。立場が逆転することを考えてください。解放軍は自国の解放のために戦い、アメリカは日本の支配のために戦うこととなることを…。
六.アメリカには、相手がソ連側に居る場合、強く反戦平和を唱える勢力が沢山いました。ベトナム戦争のときのように「若者たちを戦場に行かせるな」と歌うデモ隊がワシントンに押し寄せるでしょう。
七.決定的なことは、それが日本だけに起きることではないということです。日本とちょうど時を同じくして、朝鮮でも、中国でも同じ動きが起こるでしょう。その時の勝ち目はどうなるでしょうか?もし日本が支配下に無かったとして、アメリカは朝鮮戦争に勝てたと思いますか?
そして、世界はどうなっただろうか?
東南アジアは、ことごとく共産主義国となったことでしょう。日本が共産化して、台湾、韓国が自由主義国でいられるはずがありません。
そして、その影響は多分国際的です。そうなった時、アメリカとイギリスは、果たして自由主義でいられたでしょうか?アメリカとイギリスでも、戦後社会主義の影響は増大したのです。
おそらく二十一世紀の世界は、今とはほとんど異なったものとなったことでしょう。
日本の共産化は起きなかったのですから、その影響を計ることは無意味でしょうが、多分全世界的な規模で社会主義化が起きたと思われます。
あなたは、このシナリオを空想と思うでしょうか?しかし、同様のことは現実に起きているのです。
蒋介石は一九四九年に中国本土を追われて、台湾に逃げなければなりませんでした。
一九五〇年には朝鮮戦争が起こって、朝鮮はほとんど北側の手に落ちそうになりました。
二つの戦争は全て解放の名によって行われた自国民同士の内戦だったのです。しかも、敗れたのは自由主義側でした。
恐らく日本でも同じことが行われようとしていたのではないでしょうか?
しかし、天皇に敵対する立場をとったなら、あの六十万人の兵士を動かすことは不可能です。
だから天皇は必要なのです。
では、何が日本の共産化を阻んだのでしょうか。
天皇はアメリカを選択した
明治維新の時、徳川幕府側と反幕府側は、天皇を玉[ぎょく]と呼び、天皇を自分の側に付けようとして奪い合いました。なぜなら、その玉[ぎょく]を取ったものが日本を支配する者となるからです。
それはアーサー王と剣エクスカリバーの神話物語と同様に、空想的な話にみえて、それを信ずる者にとってはハッキリとした真実なのです。
日本の敗戦の時には、どのような奪い合いが起きたのでしょうか?ウェブに乗っていた記録を見てみます。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/kaiken/sub_kaiken.html
- 八月十五日終戦
- 八月三十日ダグラス・マッカーサー厚木到着
- 九月二日戦艦ミズーリー艦上での降伏調印
- 九月中旬、新たに外務大臣となった吉田茂は皇居に招かれて、昭和天皇から「マッカーサーに会いたい」と言われた。
- 九月二十日、吉田茂がマッカーサーを訪ね、昭和天皇の要望を伝えた。マッカーサーはアメリカ大使公邸で会見することと、場所を指定した。
- 九月二十七日、天皇はアメリカ大使館に行き、マッカーサーとの会見が実現した。この時の写真は、天皇の権威を損ねるということで翌日の会見を報ずる新聞に載らなかったが、GHQは写真の掲載を指示し、翌々日の新聞に載せられた。その写真は日本の全国民に衝撃を与えて、敗戦を実感させた。
この急速な展開は、次のことを意味します。
天皇という玉[ぎょく]は自ら動いてアメリカの懐[ふところ]に飛び込んだのである。
すなわち、天皇はアメリカを選択した…ということを。
その全国民に衝撃を与えたという写真を、歴史の日を経た今、あらためて見直してみると「日本がアメリカに敗戦した」ことを示してもいますが、さらには「アメリカが日本の庇護者として立った」ことをもハッキリと示しているものなのです。(ウェブの写真を見てください)
その後何度も、天皇とマッカーサーは会見して、戦後の政策について意見を交換したということです。
これが、日本の共産化を阻止した第一の要因です。
天皇は、日本軍の武装解除に懸命の努力をした
昭和史 七つの謎(保坂正康:講談社)には、次のことが書いてあります。
アメリカ占領軍は、全く血を流さずに日本に進駐した。初め兵士たちは不安でいっぱいで、カービン銃はいつでも発射できる状態だったが、何一つ起こらなかった。アメリカ軍の兵士はやがてカービン銃を下において、丸腰で日本国中を闊歩するようになった。
そして、その理由は次の如くであったと書いています。
八月十五日、天皇は玉音放送を終えたあと、次々と日本軍が鉾先をおさめるための手を打っている。
鈴木貫太郎内閣は総辞職し、東久邇内閣が誕生したが、その折には「特に憲法(明治憲法のこと)を尊重し、詔書を基とし、軍の統制、秩序の維持につとめ、時局収集に努力せよ」と命じている。さらに大本営関係者には、関東軍や南方軍、それに北支方面軍などに武装を解除し終戦を受け入れるよう、皇族を派遣してもいいと申しでている。これによって竹田宮や高松宮が各軍の司令官のもとに飛んだ。大本営の全軍即時停戦命令はこうして「天皇の命令一下」行われることになった。
また、それによって、首脳や陸軍大臣たちによるラジオ放送などを通じて、何度も何度も武装解除のための努力が行われたのです。そして速やかに治安は回復しました。
翌年の一月(一九四六年一月一日)、天皇は「新日本建設に関する詔書」(俗に言う人間宣言)を出すとともに、その年の二月より九年間、全国巡幸し国民に直接語りかけました。
その時、天皇は、常にこう言いました。
「復興に努力してください」と。
決して「かたきを討ちなさい」などとは言いませんでした。
このことによって、日本国内の治安を脅かすような騒乱は起きなかったのです。
これが、日本の共産化を阻止した第二の要因です。
天皇は退位しなかった
天皇の退位を要求する声は多く、いったん退位を考えましたが、マッカーサーが退位しないよう説得しました。
昭和天皇は一九四八年十一月十二日のマッカーサーへの手紙で、退位しないことを決意したと伝えています。
詳しい経緯については、裕仁天皇五つの決断(秦郁彦著:講談社)に書いてあります。
その本の中に、マッカーサーと外交官のシーボルトの会話があります。
マッカーサーが言います。
「誰が考えても、これ以外の結論はないはずだよ。退位となったら日本は共産主義者の手に落ち、無秩序になってしまう。君はそう思わないかね」
「ええ、全く同感です」
マッカーサーもシーボルトも、単なる反共主義者としてそのような会話をしたのでないことは明らかです。その時の国際情勢を踏まえてのプロの軍人・政治家としての判断だったのです。中国・朝鮮の情勢は緊迫を増し、シベリアにはまだ沢山の日本人捕虜が捉えられていたのです。
天皇は「私は憲法に従ったのだ」と言った
また、裕仁天皇五つの決断(秦郁彦著:講談社)には次のように書かれて居ます。
裕仁天皇は昭和四十六年秋、訪欧旅行を前にして外人記者団へ「自分は立憲君主たることを念願してきたが、二回だけ非常に切迫した緊急事情のため直接行動をとった。その一つが二・二六事件であり、もう一つが終戦の時である」(岸田英夫『侍従長の昭和史』)と語っている。
例外的行動に出た理由も明快に説明された。前者は首相の消息不明、後者は首相が決断に窮し、聖断を求めた、という特殊事情からだった。
―中略―
立憲君主論に裕仁天皇が傾倒した理由としては、生物学研究に象徴される学者的・合理主義的な性格、皇太子時代の訪欧体験、西園寺、牧野らの元老の教育などがあげられよう。
すなわち昭和天皇は『君主の役目は憲法を護ることである』として行動していました。それは、日本国憲法になってからばかりでなく、明治憲法下においてもずっと、そう行動してきたのです。
西洋文明を学んで作られた明治憲法
大日本帝国憲法は、江戸時代の法を継承して作られたものではありません。
ヨーロッパの近代法制度に習って作られたものです。
その中でも、伊藤博文がドイツの法学者のグナイストやシュタインから学んだ影響が大きいのですが、明治憲法の思想(八木秀次:PHP選書)という本には次のように書かれています。
…伊藤博文が憲法調査の目的で赴[おもむ]いたヨーロッパで出会った学者は、グナイストもシュタインも、歴史法学の系譜に連なる者たちであり、伊藤もまた歴史法学の手法でもって憲法を起草しなければならないことを学び、実践している。
…明治憲法とは、その起草者たちの、バークやその継承者たる歴史法学者との出会いによる『歴史の発見』の所産であった。
ここにある歴史法学者とは、ハイエクが「致命的なうぬぼれ」で言及しているフォン・ザビニーを継承する人々です。
ファーガソンがそれを記したように、「財産は進歩の問題であるということは、非常に明白に見えなければなりません」(同上)。このような問題は、私たちが気づいたように、その後、言語と法律で同じく調査されました; それらは十九世紀の古典的自由主義として良く理解されていました; そしてこれらの主題は、おそらくエドムンド・バークを通して、そして多分いくらか、F.C.フォン・ザビニーのようなドイツの言語学者たちや、法律学者たちの影響を通していますが、H.S.メインによって再び取り上げられました。ザビニーの陳述(民法の成文化に対する彼の抗議)は、長文を複製するに値します: 「もしこのような接触で、自由な行為者が共存して存在しながら、お互いに支え合い、彼らの発展をお互いに妨げないようにしようとするなら、それは、それぞれの個人の生存と、活動に対して自由な空間を保障する、ある見えない境界線を承認することによってのみ達成することができます。これらの境界線と、それを通して、お互いの自由な範囲が決定されることとなる規則が、法律なのです」(ザビニー、1840:I、331-2)。(ハイエク:致命的なうぬぼれ)
As Ferguson put it, 'It must appear very evident, that property is a matter of progress' (ibid.). Such matters were, as we have noticed, also then investigated in language and the law; they were well understood in the classical liberalism of the nineteenth century; and it was probably through Edmund Burke, but perhaps even more through the influence of German linguists and lawyers like F. C. von Savigny, that these themes were then taken up again by H. S. Maine. Savigny's statement (in his protest against the codification of the civil law) deserves to be reproduced at length: 'If in such contacts free agents are to exist side by side, mutually supporting and not impeding each other in their development, this can be achieved only by recognising an invisible boundary within which the existence and operation of each individual is assured a certain free space. The rules by which these boundaries and through it the free range of each is determined is the law' (Savigny, 1840:I, 331-2). Hayek - The Fatal Conceit p.35
当然、明治憲法を立案した人々は、このような意見を知っていて、それによって明治憲法を作ったと考えられます。
ハイエクの『自由の条件』には、十九世紀のドイツにおいて自由主義の最も精緻な法体系が整備されたと書かれています。そして、それはフォン・グナイストを中心とする学者によってなされたと書かれています。(自由の条件 第十三章 自由主義の行政府―法治国家:春秋社)
伊藤博文は、まさにその当時のドイツに行って(一八八二年~一八八三年)憲法の研究をしたのです。しかも、最初にフォン・グナイストその人に学んでいます。明治憲法にはヨーロッパに文明をもたらした自由主義の精神が埋め込まれているのです。(明治憲法には行政裁判所に関する条項が存在します。第六十一条)
私には述べる資格がないのですが、明治憲法は、西欧に文明をもたらした『自由憲法(The Constitution of Liberty)』を基礎にしているのである、と信じます。
明治憲法には、重要な二つの概念があります。
一.は私有財産の保護、すなわち所有権の保障です。
二.は天皇の権限を法の枠内に収めるということ、すなわち国家の力を法の枠内に限定するということです。
これらはハイエクによれば自由を保障する、最も重要な概念なのです。
この二つの法は、戦争に向かう時期に破壊されていきました。
一.は、明らかに大正デモクラシー後の、知識人の社会主義への傾斜によって暫時侵食されていきました。
二.を行ったのは誰なのでしょうか?
国体明徴運動を起こした人たち、天皇を絶対化した者たちは何を目指していたのでしょうか?実際に起こした人々、団体、目的等を詳細に分析して、どのような勢力が、そのようなことをしたかを明らかにする義務が、研究者にはあると思います。
五・一五事件のとき、本当に国家の要人を殺したテロであるにもかかわらず、「彼らは天皇のためにしたのである」あるいは「世の中の方が悪であって、彼らは純粋な青年の正義感からしたのである」などとして、全国的に百万通にも及ぶ減刑嘆願書を国民に出させるよう運動した人々は誰なのでしょうか?マスコミの力がなければ、そのようなことは出来ないはずです。
ハイエクの「農奴への道」は書きます。
社会主義者(そしてナチス党員)は、常に「全くの」正式におこなわれた裁判に抗議していました。彼らは、ある特定の人々がどれだけの富を持つべきかということに関して見解を持たない法に反対していました。彼らは「法律の社会化」を要求していました。司法の独立を攻撃していました。これらのことはとても重要です。(ハイエク:農奴への道)
It is significant that socialists (and Nazis) have always protested against 'merely' formal justice, that they have objected to law which had no views on how well off particular people ought to be, that they have demanded a 'socialization of the law' and attacked the independence of judges. The Road to Serfdom(Digest)p.58
私は最近、明治憲法があの戦争の原因なのではなく、明治憲法を守らなかったことによりあの戦争が起きたのではないか、と疑っています。
天皇に従った民衆と兵士たち
私は、第二次世界大戦は大変に不幸なことであったと思います。しかし、その後に続く中国や、韓国、そしてベトナムに起きた内戦(まさしく同じ民族が殺しあう)という、より不幸な出来事を回避できたことは、日本の幸いであったと思います。(そして共産化しなかったことは恐らく世界の幸いでしょう)
シベリアに抑留された人々は不幸でしたが、それでも内戦の戦士として狩り出されることが無かったことは幸いだったと思います。
そうできたのは、明らかに彼らが天皇に向かって弓を引くことの出来ない兵士だったからなのです。
そして(多分彼らの存在を知っていた)法の番人としての天皇が、続く戦争を防ぐために出来る限りの努力をしたからなのです。
おそらく、もしこの物語が架空のものでないとしたら、それは歴史の皮肉を思わせます。
彼らの存在によって、ソ連が天皇の訴追をしなかったとしたなら、天皇の皇位を守った者は、シベリアに抑留されていた関東軍兵士たちなのです。
彼らの、天皇への忠節が皇位を守ったのです。
北九州に立つメモリアルの碑
写真は、日本の北九州市に立っている十字架の碑です。
朝鮮に向いて立っていて、朝鮮戦争で戦死した連合軍の兵士を慰霊するものです。
私は、今まで述べてきたシナリオは架空のものであるとしか言えません。しかし朝鮮においては現実に、同様のシナリオが実行に移されました。
日本軍はそのときからアメリカの友軍である
その時、日本に正式の軍隊はありませんでしたが、海上保安庁が朝鮮半島沿岸の掃海作業を行っています。それらの人々は外でもありません、過去にアメリカ軍と戦った旧日本軍の兵士たちでもありました。その時から、日本の軍隊はアメリカの友軍として行動していたのです。
日本軍のアメリカ軍への協力はペルシャ湾での掃海作業(一九九一年)から始まったのではありません。
一九五〇年の朝鮮戦争の時から始まっているのです。
日本の軍隊は、日本を護るための軍隊ですから、日本が自由主義圏に在る限りは、自由を護るために戦う軍隊なのです。
そして、靖国神社に鎮まる神は、彼らを護る神なのです。
平成二十年十月十二日(web)
野坂参三のシベリア抑留に関する手紙
Web の『ウィキペディア(Wikipedia)』に次の記事があります。
(野坂参三は)ソ連のシベリア抑留の帰国者に関する手紙で、ソ連のシベリア抑留の肯定、延長を求める文面があり、それを元に国会で大々的に追及される。
つまり、
1950年ごろと思われますが、野坂参三は『日本の捕虜を本国に帰すスピードを遅らせろ』と言っているのです。
後藤隆之助の行動
やはりWeb の『ウィキペディア(Wikipedia)』にある情報です。
後藤隆之助は、近衛文麿の政策研究会である『昭和研究会』の設立に重要な役割を担った非常に有能な(政治的)活動家です。大政翼賛会の組織局長も勤めました。
また、尾崎秀美の非常に親しい親友でもありました(尾崎秀美の葬儀の時に、棺の前で参拝者に感謝の挨拶をしていました)。
彼は、終戦後、政治の表舞台からは完全に姿を消します。そして、彼が何をしていたかは、ほとんど知られていません。ただ、戦後、次のことをしていたことを、ある時、私は知りました。ウィキペディアに載っています。
また、一頃まで徳川埋蔵金の発掘に熱中したりした。
なぜ、彼ほどの有能な人間が、活動の場を捨てて、山師のようなことをしていたのでしょうか?
私は、次のように想像しました。
埋蔵金を探すとすれば、その探す候補地として真っ先に考えられるのは、きっと『山城』の跡に違いありません。そこは人の行かない所でもあり、また平地の城が落とされたときには、立てこもって戦う場所です。
つまり、こう想像できます。
後藤隆之助は、ゲリラ戦を行うに当たって最もふさわしい場所を調査し、そして沢山のトンネルを掘っていたのです。
彼は、決して第一線を退いてなどいなかったのではないでしょうか?
私が研究者であったなら、彼がどのような場所で埋蔵金探しをし、また、その軍資金は何処から拠出されたかということを、きっと調べたく思うことでしょう。
しかし、それはとてつもなく困難でしょう。何故なら、彼らは埋蔵金探しをしていたのですから…。
平成二十一年二月十一日
http://www.liberalism.jp
(c)Haruki Imanishi
iharuki@hotmail.co.jp