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緊急を要するマーケットの道徳

(c)今西春樹



目次

始めに
   エッセーの出典
   最初に銘記しておいていただきたいこと
   ハイエクの文章

緊急を要するマーケットの道徳

一、前文

二、ルドウィグ・フォン・ミーゼスのインスピレーション
   お金が計る価値とは何か?
   『価格システム』を不完全にしてしまうもの
   自由主義国家における政府の最も重要な責務

三、価格と経済秩序
   富とは何か?
   利益と豊かさについて
   「富を支えているシステム」を保存するという仕事
   拡張された秩序

四、マーケットシステムを改善するには
   自由社会の基礎
   福祉の問題
   自由主義社会の構図

五、社会主義:知性の過ち
   利用可能な富
   社会主義社会の構図
   日本の封建社会(江戸時代)の構図
   マーケットの道徳
   魅力のある「共同体の道徳」

六、社会的公正という幻想
   修正された社会主義の図

七、商業のモラルの低下

八、理想 対 生き残り
   戦争を引き起こした過去の日本の失敗
   アメリカでも日本でも、自由をかかげる政党が敗北した
   アメリカの経済政策の失敗
   金融工学という幻想
   なぜ、メンガーの理論が理解されないのか
   本当に市場原理の理解が必要なのです
   市場が示す指標は社会の変化を示している
   地球規模の大共同体
   ハイエクの主張




始めに


たまたま、ハイエクの次のエッセーを見つけましたので、その内容を紹介しながら、私がハイエクから学んで考えた自由主義について説明したいと思います。

エッセーの出典

次の書物の中で見つけた、ハイエクの短いエッセーです。

本のタイトル
『未完成の記事』 アーサー・セルダムを追悼しての、政府の政策に関する政治経済学のエッセー
出版:IEA(経済問題研究所)ロンドン 一九八六年

ハイエクのエッセーのタイトル
『緊急を要するマーケットの道徳』

最初に銘記しておいていただきたいこと

私が今までハイエクの本を読んで自由主義について考えてきた、その考えを次に示します。この小論は、この概念に基づいて書きましたので、読み進む前に、頭の中に入れておいて下さい。

自由主義の原理

①、個人が財産を持つことにより、個人は自分の力で生きていくことが出来る
②、個人が、自ら生きていくために必要な『もの』を提供するのは市場である


ハイエクの文章

続く段落で、ハイエクのエッセーからの抜粋は大きな太字で示します。また、説明を普通の文字で加えます。普通の文字でゴシック体のものは、他の文献からの引用となります。

※私は経済学についてほとんど勉強をしたことがないので、多くの間違いを犯すかもしれません。お気づきになりましたら、お教えいただければ幸いです。





緊急を要するマーケットの道徳 F.A.ハイエク


一、前文


一九三六年、ジョン・メイナード・ケインズが一般理論を発表した年に、ハイエクは、以前経済学の別の分野で彼の行った仕事が、ケインズの理論と同じ基礎に根ざしていることを見出しました。
 私たちが洞察したことは、価格システムの本質は、何百万という人々に、彼らがはっきりとした直接の知識を持たない事象、需要や条件に、彼らの努力を適応させることができるようにする道具である、ということであり、それによって、世界経済の全体を調整しているものは、無意識のうちに大きくなっていた、ある実際に行なわれている慣行と、その利用のおかげに因っているのだ、ということでした。
それはまた、ハイエクが「産業変動」についての研究で気づいた『不完全な価格システムは人々の努力を失敗に導いてしまう』ということでした。

ここで、私が注目するのは真ん中辺の、

価格システムの本質は……道具である。

という洞察です。

『お金は、人類が発明した最も偉大な道具である』という言い方をしたら、恐らく現代の日本においては多くの知識人たちの嘲笑の的になることであろうと思われます。それは多くの経済学の書物が『お金』という、はっきりとそれ自身の本質を示す言葉を使うことをためらって、『貨幣』というその働きが表に出ない無機質のような言葉を使うということで例証されます。

しかしながら、振り返って考えるとき、『お金』が道具であるという事実は動かすことが出来ないと思われます。そこで、お金の道具としての特質を考えてみたいと思います。

①、お金はものの価値を示すモノサシである。

天秤ばかりでは分銅を使って軽量しますが、お金はそれと同様に、ものの価値と同量の分量を「千円札が何枚、百円玉が何個、十円玉が何個」というふうに積んで「何千何百何十円」というふうに、そのものの価値を示します。

そこで問題となるのは、後で考えますが、お金が計る価値とは何なのであろうか、ということです。

②、お金は、ものの交換媒体として使用できる。

お金のもう一つの特質は、計ったものと同量のお金は、ものそれ自身と交換することが出来る、ということです。モノサシや分銅は、そのように用いることが出来ません。

この第二の特質こそが、お金に不可思議な魔力を与えている特性であると言えます。
逆にこの特質が無ければ、お金はお金としての役割を果たせないのです。(その意味は、主観的効用の秤とはなれないということです)




二、ルドウィグ・フォン・ミーゼスのインスピレーション


ハイエクの考えは、主としてルドウィグ・フォン・ミーゼスが示した、社会主義計画経済の問題点についての概念によって着想を得たものでした。
 この私の考えは、主としてルドウィグ・フォン・ミーゼスが示した、計画経済を指揮するときに起こる問題についての概念によって着想を得たものです。家賃の規制によって起こる結果に関する私の早い段階での調査は、ほとんど他の何物よりも明らかに、価格システムに対する政府の干渉が、とてつもなく完全に、人間の経済活動の努力をひっくり返してしまうことを示していました。

お金が計る価値とは何か?

ここで、先ほど問題にした、お金が計る価値とは何なのであろうか、ということを説明してみます。

ハイエクは『致命的なうぬぼれ(The Fatal Conceit)』で、限界効用理論についての説明しています。

「限界効用」という用語は難しくて理解しにくいので、もう一つの呼び名である「主観的効用」という言葉が理解を助けます。経済的価値とは、「もの」そのものの属性ではなく、個人が主観的に、自分が必要とする「もの」に対して置く価値なのである、ということなのです。

価値は、物が、人間との係わりに関係なく、それ自身で持っている属性、あるいは物理的な資産ではありません。逆に、単にそれらの係わりの様相であり、それは人間が、それらの物の使い方を彼らが決定するにあたり、他者によるそれらの物の使い道に比較してより良い機会を計算できるようにさせるものなのです。価値の増加は、ただ人間の目的とともに、そして人間の目的に関することのみに関係して、現れるのです。カール・メンガーが(1871/1981:121)明らかにしたように、価値は「経済的に考える人たちが、彼らの生命と快適な暮らしの維持のために、彼らが使用する商品の重要性について下す判決です」。経済的価値は、個人の尺度に応じた目的の異なった多様性のいくらかを満足させる物質の、能力の変化する度合いを示します。(ハイエク 致命的なうぬぼれ)

たいていの物質的な手段が、さまざまな重要性を持っている多くの異なった目的のために使われることができて、そして多様な手段がしばしばお互いに代用させられることができるので、目的の究極的価値は、それらの相対的な不足と、それらの所有者の間の交換の可能性に依存する価値―すなわち、価格―手段の価値という一つの尺度に反映されるようになります。(ハイエク 致命的なうぬぼれ)

そして、価格は、「お金」と、「市場」という二者が存在することによって現われてくるということも見逃してはならないことであると思います。

価格は、多くの人々が「もの」に対して主観的に持つ価値の尺度が、市場においてある意味凝結して提示される数値ですから、各人はその数値を見ることによって、自分自身の目的を達成するための道筋を発見することが出来ます。(教育とか、資格とか、訓練とかのサービスも、ここで言う「もの」に当たります)ですから、価格は各個人が自分の目的の為にどのように行動したらよいかを示す道標となるのです。

自由社会は、各個人が各々異なった目的を持って生きる社会です。ですから、価格が持つこの特質は自由社会では不可欠です。私有財産制度と、市場と、この価格システムがなければ、人々は生きる道筋を見失ってしまうのです。

『価格システム』を不完全にしてしまうもの

ですから「家賃の規制」のような価格統制的な政策は、人々の努力を「失敗に導いてしまう」のです。

ハイエクが述べている「市場システム」を不完全にしてしまうもののいくつかを挙げてみます。

・政府による通貨発行権の独占
・価格統制的な政策
・「適切な所得」を目指す政策
・企業の独占による価格の固定化
・労働組合による賃金の規制
・労働賃金の下方硬直性
・社会福祉の行き過ぎた増大

また、市場が世界的になった現在では、次のことも重要です。

・為替の不安定性

ほとんどの人は、例えば、金属本位制の基準に基づいて本質的に自動のメカニズムであったものが、専門家の指導の下で、故意の国家による「金融政策」によって取り換えられたときから、これまでの七〇年かそこらの間に、それらの働きが良くなったとあえて主張しないでしょう。(ハイエク 致命的なうぬぼれ)

自由主義国家における政府の最も重要な責務

以上のことから、自由主義国家において政府の果たす重要な役割は、

・仕事を民間に任せる

というような、単純なことではありません。

・市場の機能を守る

ということが、第一の責務とされなければならないのです。




三、価格と経済秩序


ハイエクは次第に次のことに気付きます。
・経済学の基本的な役割は、人間が自身で何の情報も持っていないデータに対して、どのようにしてその行動を適合させようとするかというプロセスを説明することであること、
・経済の秩序は全て、価格を道案内あるいはシグナルとして使うことによって、人々が何も知らない人々の需要を満たし、また何も知らない人々の、力と能力とに協力し合うように導かれているのであるという事実。
 私たちがこの世界で、かくまでも巨大に増加した人口を維持するほどの富を生産することが可能となり、さらにはその富をより公正さをもって配分するという新しい野心を実現しようとさえし始めることが可能となったのは、私たちが一度も理解したことがなかったし、また一度も設計したことがなかったシステムに頼ることによっていたのです。基本的に、価格とは、何千という個人の努力が無意識のうちに協調を引き起こすように導くシグナルなのであるという洞察は、ある意味で近代のサイバネティックス(人工頭脳学)理論であったのです。そして、それは私の仕事の背景にある指導的なアイデアとなりました。

富とは何か?

私の現在の考えを述べてみます。正しいかどうかは、まだ分かりませんが…。

「もの」は、価格に相当する「お金」によって買うことができます。そして「お金」は、あらゆる「もの」と交換することが出来ます。ですから、私たちは自分の目的を達成するために、まず「お金」を手に入れて、財産を増やすことも必要となります。自由主義社会においては、「お金」は私たちの未来を開くために、先ず必要となるものでもあるのです。

 わたしたちの収入額が限られていることを通して、わたしたちの相対的貧困がいまだにわたしたちに制約を課していることを感じさせられて、多くの人々はお金こそわたしたちを制限するものであるとして憎悪するようになりました。真実は、お金は、今まで人間によって発明された「自由への道具」として最大の道具の一つです。今ある社会の中で、貧しい人に目をくらませるような選択の幅を開いてくれるものはお金です―その選択の幅は過去の多くの世代においては裕福な人たちでさえ持てませんでした。(ハイエク 農奴への道 ダイジェスト版)

私たちの多くは、市場に労働を提供して、給与という形式でお金を手に入れます。ですから「労働」もまた、ここで言う「もの」なのです。私は次のように考えました。

・「もの」は「お金」に交換することによって「富」になる

小学生の頃、母方の田舎に夏休みに行ったとき、村には一軒の店しかありませんでした。自分の小遣いで買えるものはわずかでした。小さな社会では「お金」によって買えるものはわずかです。ですから、単に市場が大きくなることだけで、同じ「お金」によって得られるものの種類を増しますから、一層「富む」こととなるのです。

ですからまた、「お金」が「富」であるためには、市場の存在が不可欠なのです。今や、社会主義国であっても、市場の恩恵を受けずにいることは出来ません。どんなに資源や人材を持っていようとも、市場に参加出来ないなら、富にあずかることは出来ません。経済制裁が実は、非常に効果的な手段であることを示しています。

かっての日本のように、市場に背を向けることは、致命的な事態を招来することとなるのです。

利益と豊かさについて

ハイエクは、社会主義的知識人たちが利益を蔑視することは、経済に対する無知によるものであるとして、『致命的なうぬぼれ』の中で次のように述べます。すこし長めに引用します。

利益への関心は、まさしくリソースのいっそう効果的な使用を可能とするものなのです。それは、他のビジネス事業からの協力を受けられる可能性がある多種多様な支援の最も生産的な使用を作り出します。私たちが、アリストテレスからバートランド・ラッセルまで、アルバート・アインシュタインからブラジルの大司教カマラまで(そしてしばしば、アリストテレスからなのですが、それらの利益は「他の人たちを犠牲にして」されるという句が付加されて)一つの形式あるいは他の形式で見いだす、高潔な社会主義者の「利益のためにではなく、使用するための生産」というスローガンは、異なった知識にアクセスすることができる異なった個人によって生産する能力は、彼らのうちの一人の人がかき集めることが出来るより、どんなに累加させられるか、ということへの無知を表しています。企業家は、彼の活動で、知られている使用と目的を超えて調査しなくてはなりません。もし、彼が、その手段がさらに順に他の人たちへ仕えることとなり、さらにそれが他の人たちに仕えることとなる…、となるような手段を提供しようとするならば―すなわち、もし彼が最終的に起きる目的の多様性を果たそうとするなら…。価格と利益は、多くの生産者がいっそう効果的に、彼らの知らない人々たちの必要を満たすことを可能とするために必要な全てです。(ハイエク 致命的なうぬぼれ)

私たちの、ささやかな利潤について考えて見ましょう。私たちは労働を売って賃金を得ているわけですが、もし私たちが必要とする以上の賃金を得るとするなら、その必要量を超えた部分は『利益』と言えるのではないでしょうか?私たちは、その余分な利益によって、旅行をしたり、娯楽を楽しんだり、趣味を楽しんだりします。勉強をしたり、慈善事業に寄付したりすることも出来るでしょう。さらには、現在の仕事と全く異なった職に就くための原資にすることも出来るのです。

もし利益を得ることが許されないなら、上に述べたようなこと、例えばあなたが旅行を楽しむことは出来なくなることでしょう。確かに社会主義が厳しく行なわれているところでは、人民がそれらを行なう道は絶たれているのです。

皮肉を込めて言えば、多分自由主義側のそれに相当すると思われることが、当局によって提供されるかもしれません。

○○様の前で、マスゲームに参加して踊るというような、計画された娯楽が…

恐らくそれは、彼らにとって本当の喜びなのです。

私たちの自由世界に帰りましょう。利益は、それを貯めることも出来ますから、私有財産という富を増やすことにも使えます。つまり、それによって私たちは一層豊かになることが出来るのです。

「富を支えているシステム」を保存するという仕事

それは私の主要な仕事になりました。そして私が今ちょうど試みたような手短かで、しかもわずかな言葉でそれを述べることが出来るようになるまでには、五十年近くを要したのです…十年前であってさえ私は同じぐらい簡潔にそれを述べることは出来ませんでした。それがいったん述べられた途端に、私たちの文明と、私たちの富の基本的な基礎を成しているものは、世界中で起こる何百万という出来事の効果について、たとえ不完全であったとしても、私たちに知らせるシグナルのシステムであり、そのシグナルに向かって私たちは自身を適応させようとしているが、そのシグナルについて私たちは直接の情報を持っていない、ということは明白であると思われるのです。

拡張された秩序

ハイエクは、この世界的に広がった大規模な「富を支えているシステム」を「拡張された秩序」と呼びます。

実は、これこそがハイエクが社会主義に決然と対決して打ち出した、地球規模の『共同体構想』であると私は考えます。個々の人々が自由でありながら、全世界的な規模で協調しているシステム…。ハイエクは次のように述べます。

何人かの人々は市場秩序の若干の効果によって、大変に苦しめられたので、彼らは、そのような秩序が現代世界の大部分を支配できるようになったことが、いかに有り得ないことであり、かつ驚くべきことであるかということを見落としています。その世界の中で、私たちは何億という人々が常に変化しつつある状況の中で働いて、ほとんど彼らの知らない他人のための生活手段を供給しながら、同時に彼ら自身は、同様に何も知らない人々によって生産される物とサービスを受け取ることができるだろうという、彼ら自身の期待に確信していることを見出すのです。(ハイエク 致命的なうぬぼれ)




四、マーケットシステムを改善するには


価格が人々を導くシグナルであるという洞察は非常に重要な結果を将来します。政府や人々は、自身の活動を、価格システムが出来る限り効率的に機能するように稼働する制度的枠組を作ることに、止めておかなければなりません。そうしなければ、その機能をひっくり返してしまうように追い込まれてしまうのです。
 価格が、私たちをして未知の出来事と要求に自分自身の活動を適合させることができるようにするシグナルであることが事実とするなら、私たちが価格をコントロールすることができると信じることは明らかにナンセンスです。もしあなたが、それが何を示すシグナルか知らないなら、あなたはシグナルを改善することができません。

  自由社会の基礎

以上のことから、自由社会の政府の役割は、市場の機能を守ることが第一でなければなりません。

しかし、このシステムが完全であるとは決して言えないので、改善の余地はあるとハイエクは主張します。特に以前は考慮に入れられていなかった情報をマーケットに供給するという新しい手法や、市場ができない部分を「意識して作った組織」で補うことも可能であろう、と述べて、

ですから、私たちは、市場がその下で稼働している枠組みを改善しようとする限りにおいて、市場からの最も良い結果を得ることが出来るのです。

と言っています。

福祉の問題

自立することの出来ない境遇の人々のために(政府機関や、その他の組織を通じて)供給しようとするときには、私たちは市場システムの外に出なければならないのです。

福祉のような仕事を国が行なうとき、それは市場の外で行なわなければならないとハイエクは言っています。なぜなら、それを市場の中で行なうときには、市場の機能を乱してしまうからなのです。ハイエクの、この言葉に接して思うことは、「介護保険」を民間活力を利用して遂行する、という考えが、「果たして正しかったのであろうか?」ということです。

自由主義社会の構図

大胆な試みではありますが、ハイエクの指向する自由社会とは、このような世界なのではないだろうか、と考えて、図にしてみました。


自由主義社会の構図

この図の中で、個人は市場に従属しているのではありません。個人は自らの居る局所的な地において、自分自身にとって最適な生き方を探りながら、市場を通じて人々に貢献し、市場を通じて生きる糧を得ると共に、より快適な機会を得ているのです。

そして、個人は会社にも従属してはいないし、政府にも従属してはいません。現在の日本において、個人が会社に従属しているかのように見えるのは、税の徴収方法と、社会保障の仕組みが、そのように強いる方法で形作られているからです。それらは明らかに封建社会の悪しき仕組みが残ったものなのです。

自由主義社会の中における、家庭や会社や組合のような小さな社会は、(もちろん古くから存在する共同体ではありますが)その目的によって形作られたものであり、目的を一つにすることによって共同体として存在するのです。ですから、その目的を大きく超えた共同行動を個人に強いることはあってはならないのです。

しかし、その目的を一つにすることによって個人が自分自身の力をより発揮させることになりますから、市場により良い貢献をすることとなるのです。小さな共同体は否定されるのではありません。自由市場の元でその部分を形成する重要な小社会なのです。

市場は、誰かが作ったものではありません。歴史の過程を経て、より優れたものが生き残るという進化のふるいを経た結果、今まで試みられた中で、最も効率的であって最も多くの人々(おそらく人類)に貢献する社会的仕組として生き残ったものなのです。




五、社会主義:知性の過ち


 この線にそった議論は、いくつかの非常に重大な知的、かつ道義的な問題を提起します。第一に、私にとって社会主義が持つ野心は、(資本主義と)異なった価値というより、むしろ知的な過ちを反映しているように思われます。社会主義は、社会主義者が再分配しようと望むときに、私たちが担わなければならない利用可能な富は何であるかということに関する理解の欠如した理論に基づいています。

利用可能な富

先に述べたように、「富」が、「お金」・「市場」と不可分な関係にあるとすれば、「お金」と「市場」を否定する社会主義国家は「富に見放された社会」としか言いようがありません。

知識人たちの真の社会主義共同体を求めようとする空しい努力、それらは見たところは、終わりの無い「ユートピア」の理想化と、幻滅の連鎖という結果になりました―ソ連、キューバ、中国、ユーゴスラビア、ベトナム、タンザニア、ニカラグア―それらは、社会主義には、確かな事実に合致していない何かが存在することを示唆しているはずなのです。(ハイエク 致命的なうぬぼれ)

社会主義社会の構図

前の「自由主義社会の構図」に対応する、「社会主義社会の構図」を作ってみました。


社会主義社会の構図

先の自由主義社会の構図と比べてみてください。個人は明らかに集産・分配組織に頼らざるを得ず、公社を通じて政府の下に隷属する人となってしまうのです。

ただ、公社や分配組織を担う人々は、最下層の人々よりはいく分か自由で快適な暮らしを送ることができるでしょう。そして政府を運営する人はもっと自由で快適なことでしょう。

そのようにして、大部分の人々が最下層の人民として生きなければならない階級社会が出現してしまうのです。

日本の封建社会(江戸時代)の構図

日本の江戸時代は、武士・農民・工人・商人という身分社会でした。農民は実は第二等の階級であって、実は高い階級なのです。これはまた、その当時の人々が何を高い価値としていたかを示しています。(社会主義も似ていると思いませんか?コルホーズ・ソフォーズ・農本主義・満州開拓団…)

(下層民というよりは)身分社会から取り除かれていたに等しい工人・商人を省いて、その構造を図示してみましょう。


江戸封建社会の構図

社会主義社会の構図と似ていると思いませんか?事実は、これこそが社会主義の実態なのです。

中世、領主に従属して農耕をする人々は農奴(Serfdom)と呼ばれていました。日本の封建時代の農民の地位もほとんど全く同じです。だからこそハイエクは社会主義を目指す道を『農奴への道(The Road to Serfdom)』と呼んだのです。

マーケットの道徳

お互いによく知り合っているグループの人々に共通する目的についての合意は、明らかにお互いを知らない人々を含む大きい社会に適用することの出来ないアイデアです。近代社会と近代の経済は、顔をつき合わせている一つの小さいグループ社会における生活にとって重要とされる、そのようなアイデアは、はっきり言って大きいグループには適用できないという認識を通して大きくなったのです。近代的な文明を発展させてきた本質的な基礎は、人々に彼ら自身が持つ知識に基づいて彼ら自身の目的を追求することを許すことであり、それが他の人々の目的によって拘束されることはないということなのです。

ハイエクは、マーケットの道徳という言葉を使って、この世界規模に広がった共同体は、人々がある、より原始的な本能に近い道徳とは異なった道徳を身に着けることによって存在することになったのであると説きます。一方は小さな社会において必要とされる道徳であり、マーケットの道徳は地球規模に広がった大きな社会で必要とされる道徳です。その、二つを並べてみましょう。

小さな共同社会の道徳
・お互いに助け合うこと
・一致協力して行動すること
・財産は皆の共有物である

マーケットの道徳
・他人を尊重すること
・他人の目的を妨げないこと
・互いの所有権を犯さないこと

さらに、この二つの道徳には重要な次の特徴があります。

①人々がマーケットの道徳を身に付けることによって大きな社会が可能となった。だから、大きな社会はマーケットの道徳によってのみ支えることができる。

②共同社会の道徳は人々が大昔からの生活で身に付けた本能的道徳であって、人々はそこに心からの安心を見出すことが出来る。一方、マーケットの道徳は新しい上に、冷たく見えるし、それを行動した結果の利益は見えにくい。

③、結果として、この二つの道徳は対立してしまい、ほとんどの人々は共同体の道徳を善であるとしがちである一方、マーケットの道徳を自分を縛るものと思ってしまう。

ハイエクは、共同体の道徳は不要であるとは言っていません。それは、必要であるのです。しかしながら、その小さな道徳を大きな社会に適用してはならない、と言っているのです。理由は、小さな社会の道徳は、目的を一致させることの出来る社会においてのみ可能なのであって、各人が別々の目的を目指す社会には適用できないからなのです。

前に述べたように、会社という組織はある目的を持って組織されています。その目的によって会社は個人がするよりも大きな仕事をすることが出来ます。そのために小さな共同体の道徳は役立ちます。しかしながら、その道徳は共同体の目的に添ってのみ発揮されるべきであって、それ以外の場面で強要されてはならないのです。

魅力のある「共同体の道徳」

しかしながら、この「共同体の道徳」は、多くの人に訴える魅力を持っています。そのために、人々は「共同体の道徳」に傾きがちです。なぜなら、

・「拡張された秩序」の社会では、国家は慈悲深い神のような姿をもって人々の前には現われない。

からです。

しかし、共同体の道徳を大きな社会に当てはめるとき、大きな社会を成り立たせていた市場という基盤が失われて、小さな社会が支えることの出来る人数を越えた人々は、飢餓によって死ぬこととなるのです。恐らくそうなる前に、多分戦争が起きることでしょうが…。




六、社会的公正という幻想


資本主義の市場と全く同じことが、公正の原則によって分配をしようという社会主義の基本的な願望に当てはまるのであって、賃金は人々が何をなすべきかを示す有効なガイドとして仕えなければならず、人々の働きが彼らにとって良い意図であるかどうかとか、人々が良い意図を持っていたかどうかということによって人々に報酬を与えることは出来ません。
 あなたは、人々が残りの世界に対して最も良く貢献することが出来るように教えるよう、価格が決定されることを可能にしなければならず、それは、不幸なことに自分自身の仲間に対して良い貢献をする能力は、公正さの原則によって分配を受けられないということになります。

沢山の人々を犠牲にした社会主義の失敗により、社会主義の「集産・分配機構」はほとんど信用されなくなってしまいました。現在の社会主義者は市場の機構をその代替として使おうとしているように思われます。

しかしながら、先の市場の性格から、自由主義社会の政府が市場に干渉することが失敗を招来するように、社会主義者も市場をコントロールすることは不可能であると、ハイエクは言っているのです。

修正された社会主義の図

次のページには、もはや計画経済の破産を歴史的教訓とした、現在の社会主義者たちが、どのようにして自分たちの目的を達成しようとしているかを示します。


修正社会主義の構図

 エコノミスト、特に古典派のエコノミストたちが、「価格が持つ不可欠な機能は、人々に彼らが将来何をするべきであるかを伝えることであり、価格は彼らが過去において何を為したかに基づくべきではない」ということを見ることをさえぎられていたという事実は、経済学の歴史にとって悲しいミスでした。私たちの近代的な洞察は、価格は、人々に対して彼らがシステムの残りに適合するためには何を為さなければならないかということを知らせるシグナルであるということです。

大きな共同体は、市場によってその存在を支えられていて、市場が示す価格というシグナルは、その共同体が、今どのような状況であるかを示すものなのです。大資本による金融のかく乱や、政府の介入がなければ、人々は、その指標を見ることによって、自分自身がどのような仕事に向かえば良いかを知ることが出来るのです。




七、商業のモラルの低下


 百三十あるいは百五十年前に、今西洋の工業化された部分に属する所では、全ての人々が皆、民業あるいは商業のモラルと言われている規則あるいは必要性に精通しながら成長しました。なぜなら全ての人々は等しく他の人々の経営に携わり、他の人々の経営にさらされるという小さな企業で働いていたからです。親方であろうと、使用人であろうと、家族の一員であろうと、皆は市場における需要や、供給や、市場価格の変更に対して彼自身を適合させなければならないという避けられない必要性を受け入れていました。前世紀(十九世紀)の真ん中で変化が起き始めました。以前にはおそらく、ただ上流階級とその使用人だけが市場のルールを知らない人であったでしょうが、ビジネスや、貿易や、金融や、ついには政府機関における大組織の成長によって、それ以前の二千年間の道筋で発展させられてきた市場のモラルを教えられないままに成長する人々の数は増加の一途をたどりました。
  ………
 ギリシャ・ローマの古典時代以来おそらく初めて、近代産業国家の住民の中で増加の一途をたどる一部の人々は「誰もが生産者、かつ、消費者として、変化をしている市場につきものの全ての不愉快な出来事に反応することは必要不可欠なのである」ということを子供のときから学ばずに大きくなりました。


市場のモラルを教えられないままに成長する人々とは、次のような人々です。

・教師
・公務員
・公益法人などの政府に近い団体の職員
・大会社の社員
・労働組合の組合員
・学生

彼らに共通する特徴は、市場から遠い位置に居る人々であるということです。彼らは市場に供給して利益を得ているということがない人であったり、あるいはその実感の乏しい人であり、市場に影響なく自分自身の糧を得ていると錯覚していることの多い人々です。

そのために自分の労働は、当然に相当の(ある意味固定した)報酬が与えられるべきであって、市場の変化によってそれを減少させられることは受け入れられないものと見ています。ある意味で変化する市場という存在を知ることなく、自分の属する組織のようなシステムによって自分の給与は支払われていると思っているのです。

市場に参加して富を得るためには、必ず次の道徳を受け入れなければなりません。それが無い場合には市場は成り立たないからです。

①、利益を得ることを認めること
②、損失を被ることをがあることを認めること

特に市場から遠い人の受け入れがたいのは、②であり、自分たちの責任で無いにも関わらず給与を減らされることは耐えられないことに感じます。そして自分たちが市場に生かされているとは実感出来ないことと伴って、かえって市場を憎悪する人となってしまうのです。




八、理想 対 生き残り


 この二極化は前世紀において、特に社会主義政党によってはるかに遠く拡大された、市場システムに対して増大する敵意を説明します。商業のモラルの発展する道筋におけるほとんど全ての段階で、道徳的な哲学者と、宗教的な教師たちの反対に対して議論を戦わせなければならなかった、ということは十分にその概略が知られている物語です。私たちは、今、私たちが生きていることの可能となった大きく、さらに成長しつつある人口を持った世界に住んでいるのは、ひとえに市場システムの普及のおかげによっているにもかかわらず、人々の巨大な大多数(私は誇張して言っているのではありません)がもはや市場を信じていないという、非常事態を前にしています。
 ※二極化…市場に携わる人と、市場から離れた人との分離

戦争を引き起こした過去の日本の失敗

日本の戦前の状況を振り返る場合、一九二二年(大正十一年)の物価暴落から不況が慢性化し、一九二三年の関東大震災、一九二七年(昭和二年)の金融恐慌とモラトリアムの施行、一九二九年(昭和四年)のニューヨーク株式の大暴落、一九三〇年の金解禁による混乱と続いて、人々は市場を完全に信用しなくなってしまいました。

そのことが、人々の政治動向を社会主義に向かわせたことは疑いありません。一九三二年(昭和七年)には、大きな財産を持つ者を悪として殺害するという血盟団事件も起きます。

しかしながら再三述べてきたように、市場が作り出す富によって増大した人口は、市場を否定することによって支えることは出来ません。国は経済統制による運営に頼る外はなくなり、富を得る方法は他から奪うより方法が無くなって、「満州は日本の生命線である」などという主張に人々は何の疑いも持たなくなってしまいました。そのようにして、日本は全体主義国家となっていったのです。

社会主義政策を、市場原理に替えて行なおうとした結果は、より一層の貧困と、沢山の人々の死だったのです。

このことは、社会主義の議論が私たちを原始的なモラルに引き戻してしまう前に、文明と個の未来を保存するために直視しなければならない重大な問題なのです。私たちは、社会主義者たちが市場の協調するシステムを通して住民たちを食べさせることの出来る私たちの能力を破壊する前に、市場における緊張した自制を習得することをやめた途端に私たちに込み上げてくる、それらの生まれつきの感情をもう一度押えなくてはなりません。さもなければ、資本主義の崩壊によって、世界の人口の非常に多くの部分が死ぬであろうことは確実です。なぜなら私たちは彼らを食べさせることができなくなるからです。

アメリカでも日本でも、自由をかかげる政党が敗北した

今やアメリカでも民主党、日本でも民主党という、どちらかというと社会主義に興味を持つ人々が政権を執るようになりました。彼らの政策動向が『分配』に関心を向けていることはほとんど明らかです。さらに悪いことに、選挙中には自由民主党さえもが『分配』に片足を乗せていました。

しかしながら、多くの人々が『分配』を支持して民主党に票を寄せたように思えないのは、私だけではないと思います。

自由民主党の支持者は決して少ないはずはないのに、選挙に負けたのは、恐らくは政策の違いによるものではありません。

・人々の市場に対する信頼が失われかけているのです。

アメリカの経済政策の失敗

私は専門の研究者ではないので言う資格はありませんが、現在の自由主義陣営の失敗の大きな原因は、アメリカのマネタリストと呼ばれる自由市場派経済学者の失敗によるものではないかと思われます。彼らはハイエクの自由市場に対する考え方とは、異なった見方をする自由主義者と言えます。

二〇〇八年六月に新版として発行されたハイエク全集1巻の新版解説で、嶋中雄二さんという方が次のように述べておられました。

翻って、今日的問題に目を転じれば、サブプライムローン問題を契機とした、ペン・バーナンキ議長率いる連邦準備制度理事会による〇七年八月以降の一連の大幅金融緩和政策の実施は、まさしく一九二七年の連邦準備制度の政策の再来というべきだろう。バーナンキ議長が、フリードマンをこよなく尊敬していることは広く知られている。彼は現在、フリードマン的な解釈に従って、マネーサプライ拡大政策によりこの新たな恐慌に立ち向かおうとしているように見える。果たして、結果はどうなるのか。見事な成功を収め、中期的な経済安定へと向かうのか。それとも、二年間程度、問題が先送りされた後、再びハイエク的な災厄が到来するのか。これは、貨幣数量説とハイエク理論の現代的な実験ともいえよう。(ハイエク全集 第一巻 新版解説)

その解説では、現在のアメリカの政策は、一九二九年の大恐慌に向かわせた時の政策と同一方向に向かっているのではないかとして、注意を促がしています。

金融工学という幻想

もう一つの、サブプライムローン問題を引き起こした金融工学の手法に関して、ハイエクは注意を喚起して、それらがメンガーの主観的効用に基づく経済学の普及を遅らせて、人々の市場に対する真の理解の妨げとなっているとし、警戒を呼びかけています。

…しかし、現在までの四十年の間、その貢献(限界効用論による経済学への貢献)は、仮説的に測定可能とされる実態の間や、統計的な総計の間の因果関係を求める「マクロ経済学」の台頭によって不明瞭にされてしまいました。それらの学問は時々若干のことをあいまいに示すかも知れないことを、私は認めてもいいですが、しかしそれらは、明らかに、それらの生成に関係するプロセスを説明しません。
 けれども、マクロ経済学が実行可能であって、かつ有用であるという妄想(それが数学を大規模に使用することによって促進された妄想、それは常にあらゆる数学的な教育に欠けている政治家に感銘を与えるに違いなく、真実プロのエコノミストの間で起こったマジックの実行の最も近くにあったことでした)のおかげで、現代の政府と政治を支配している多くの意見は、未だに、そのような経済現象を、価値と価格とするような、世間知らずの説明に基づいているのです。人間の知識と目的から独立している「客観的な」事象としてそれらを説明しようとする空しい努力による説明に…。このような説明は、多数の人々の生産的な努力を調整するための商取引と市場の機能を解釈し、またその不可欠性を正当に評価することができません。
(ハイエク 致命的なうぬぼれ)

なぜ、メンガーの理論が理解されないのか

ハイエクは、

商取引の理解と、相対的価値の決定に関する限界効用による説明を理解することは、現存する多数の人類を養うために頼っている秩序を理解するのに極めて重要です。このような問題は、すべて教養を身につけている人によく知られているべきです。(ハイエク 致命的なうぬぼれ)

と言います。

しかしながら、まさに現代のアメリカの自由主義者の失敗が例証するように、いまだに人々はそれを理解していません。何故なのでしょう?

私が思うことを述べます。

恐らく、自由主義者を任じる人々でさえ、世界の構造を、社会主義者が想定する構造と同じように見ているのです。すなわち、「政府が市場経済の上に立って、それを制御している」ようなイメージで見ているのです。(前掲の「修正された社会主義の図」参照)

つまり、自由主義者も、社会主義者と同じ世界観(あるいは国家観)に立っているのではないか、と私は考えています。もし、ハイエクの言うことが真実であって「市場をコントロールすることは出来ない」なら、どちらの人々に付いて行っても見込みはありません。(恐らく、民主党を選択した人々のほとんども、またそのように感じていると思います。理由は解らないにしても、漠然とした不安によって)

本当に市場原理の理解が必要なのです

素人の私に多くを述べる資格はありません。しかし思います。政治に携わる人々の弱点。何とかして市場をコントロールしたいという思いが、「市場をコントロールすることは出来ない」という理論に耳をふさいでいるのではないか、と思うのです。

ただ、ハイエクの言葉を挙げます。

先に述べたように具体的な予測を行なう能力の限界は、限界効用分析という基礎の上にゆっくりと築かれたミクロ理論全体にあてはまると思われる。この種のミクロ理論への不満の増大と、その理論を異なったタイプの理論と置き換えようとする試みを導いたのは、こうした控えめな目標以上のものを達成したいという欲求であった。(ハイエク全集 第Ⅱ期 第七巻 思想史論集)

市場が示す指標は社会の変化を示している

しかしそれでも私たちは、人々が商業のモラルによって構成されている規律を受け入れるのを望もうとしないなら、比較的繁栄している西より他のどんな人口であれ、それ以上の成長を支えたり、あるいは、さらには現在の数を維持したりするという、私たちの能力が破壊されるであろうことを、はっきりと示すことができます。

市場が示す指標は、人々の交流の変化や、産業構造の変化に伴う、社会のダイナミックな動きを反映しているわけですから、私たち自身がその指標に従って社会の動きに自分自身を合わせようとしないなら、いつかは私たち自身を窮地に落とし入れてしまうのです。

また、政府がその変化を理解することなく、変化そのものを止めようとすることも、また同様の結果を招来することでしょう。政府の政策目標で最も危ういものは「景気を良くしなければならない」という政治家の恐怖心から発する政策です。

ハイエクは、景気後退期には後退するままにまかせて、悪くなる原因を芽のうちに摘み取るべきである、と言っていると私は考えます。

むしろ政府は積極的に、社会情勢の変化に合わせて人々を誘導するようにしなければならないのではないでしょうか。明治維新政府は、まさにそうしました。そして自らを替えようと努力しました。

現在は、明治維新の時ほど大変ではないのでしょうか?自らを変えないでもしのげるような、あたりまえの景気の変動に過ぎないのでしょうか?

日本は過去に同じような経験をしました。戦争に向かう前段の時期において…。

・もし、現在の全ての人々が今保持している地位を頑なに保とうとするなら、市場に背を向けるしかありません。

・もし、富の源泉である市場を保とうとするなら、私たちは変わらなければならないのです。

地球規模の大共同体

もし人口増加が、世界が保てる限界まで促進させられなかったなら、世界の多くの人々はおそらくよりずっと幸せであるでしょう。しかしながら、世界の人口は、ひたすらに市場システムを固く守ることによってのみ、食べさせられることができる大きさに成長してしまったのです。マーケットを置き換える試みは…エチオピアで目の当たりにしたように…その代替を押し付けることは愚かなことであることを証明しています。

ハイエクは、社会主義者が目指す共同体がどうあろうが、自由社会はすでに地球規模の共同体として「今、厳然と存在する」と見ているのです。だから、社会主義者が自分たちの望む共同体を達成しようとすることは、この既に存在する共同体を壊すこととなってしまう、つまり何千万という人々の死を宣告するものとなる、と言っているのです。

ハイエクの主張

この私たちが作り上げたといえる文明の重大な分岐点において、エコノミストのすることができる最も重要な貢献は、ただ、そもそもこの膨張した住民を存在に至らせた市場システムに頼り続けることによってのみ、唯一私たちは、この既存の人口を支えるという責任を果たすことができると強く主張することなのです。

ハイエクは経済学者として、常にこのように主張し続けました。

もしあなたが政治家であるならば、あなたの為すべきことは、このハイエクの言葉に耳を傾けることであると思います。

そして自由の名を自らの党名に付けている政治家なら、為さなければならない最大の責務は「市場の機能を守ることである」と、はっきり自覚しなければならないのです。




平成二十一年九月五日(web)




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(c)今西春樹
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